Cool & Zero


 最近、緑の匂いが濃くなったな、と1人の青年は思った。
 今は5月半ば。
 その中、明るい黄色の瞳が濃い緑色の髪の奥でゆっくりと周りを見回し、綺麗に青く晴れ渡った空を見上げた。
 ちらほらと白い雲も見えるが、雨を呼ぶ雲ではない。
 ふ、と。
 青年が立ち止まったそこは、半地下にある喫茶店と、さらにそこより地下部分にあるライブハウス。
 知る人ぞ知る、穴場的存在の喫茶店兼ライブハウスだ。
 その名は、‘Ocean Blue’。内装もその名に相応しく青を中心とした涼しげな雰囲気でまとめられている。
 青年はその階段をゆっくりと下りて、すぐそこにあるカウンターに向かった。
「はよ」
 短い、挨拶。
 その相手は40代半ばほどの男性。
「おう。涼、早速だが5番テーブルから注文とってこい」
 低い、落ち着いた声音。
 涼、と呼ばれた青年は、了解、と言うと、オーダー表を受け取った。
 時間は、昼のピークを過ぎた頃合。だが、まだ半分くらいの席は埋まっていた。
 残っていた客のほとんどをさばき終わったのが、涼がここにきて30分ほどたった後。
 ふ、と。
 涼は店内を見回した。
 この曜日にはいつも見る顔が見えない、と思い。
「マスター、ゼロは?」
 手に持っていたトレイをカウンターに置いて。
「あぁ。なんか、風邪引いたらしくてな。……そうだ」
 磨いていたグラスを置くと、涼を見て。
「様子、見てきてくんねぇか? アイツ、一人暮らしらしいし」
 涼は一度、店内を見た。
 客はほとんどいなく、マスターと残りの従業員で間に合う程度。
 それを確認すると、
「ん。別にいいよ」
 軽く返事をした。
 その返事を聞いて、マスターは“ゼロ”のアドレスを涼に教えた。
 それを涼は端末に入力していった。
 “ゼロ”の住むマンションはここからそう遠くもない。
 車を使うほどでもない。
 十分歩いていける距離だった。
 もともと、涼は“ゼロ”と話をしたかったと思っていたときだった。
 涼が所属しているバンド『Freedom』はドラムスがいない。演るときは、他のバンドのドラムスをレンタルしたり、フリーのやつに頼んだりしている。
 一ヵ月半ほど前、“ゼロ”がその助っ人のドラムスとして、一度だけ『Freedom』で演ったのだ。
 よくOcean Blueに出入りしているバンドやマスターに聞いた結果、“ゼロ”はフリーだとわかった。
 そのときから、涼は“ゼロ”に何度か話をしようと試みてきた。『Freedom』に入らないか、と。
 だが、うまくいったためしがなかった。何かしらの邪魔が入っていたのだ。



 20分ほど歩いて。
 “ゼロ”の住むマンションが見えた。
 20>階建ての最先端のマンション。
 エントランスに入る前の、オート・ロック。
 涼は端末に入力したアドレスを確認した。
 部屋番号を入力する。
 少しして。
『は、い……』
 掠れた声。
 Ocean Blueでよく聞く、あの綺麗な澄んだ声ではないが、根本的な響きは同じ物だった。
「あ、ゼロ? Ocean Blueのマスターに頼まれたんだけど……」
 いつも店で使う名前を呼んで。
 “ゼロ”の本名を、涼は知らない。それを知っているのは、マスターのみ。だが、そのマスターも“ゼロ”以外の名前は口にしない。
『いま、開けます……』
 また、間が開いて。
 しかし、その言葉のあとにはすぐ、オート・ロックが解除された。
 そのまま普通に、涼は中に入った。
 入るとすぐそこには、吹き抜けのエントランス。20>階建てにもかかわらず、最上階にのみガラスが張られているらしい。
 真上から、自然の光が降り注ぐ。
 その光を潜り抜けると、エレベーターが設置してある。
 エレベーターの‘昇る’のボタンを軽く押すと、すぐに開いた。
 乗り込んで、ここにある数字の中で一番大きい数字のボタンを押した。
 つまり、“ゼロ”は20階建てのマンションの、20階に住んでいる、ということになる。
 ぐ、と軽く押さえつけられるような感覚。しかし、それもすぐになくなる。
 その感覚が完全に無くなると、エレベーターの扉は開いた。
 たった数秒で20階に着いたのだ。
 最上階にある部屋は、1つ。
 それが“ゼロ”の家になる。
 エレベーターのすぐ前にあるのが、その玄関。
 扉の横には、インターホンと、指紋と声紋と虹彩パターンを確認する設備がある。これが、一種の鍵になっている。
 そして、それらの上。ローマ字で‘KISARAGI’と表記されている。
 涼は軽くインターホンを押した。
 中で呼び出し音がなったのがかすかに聞こえた。
 と。
 すぐにその扉は開いた。
「ども。マスターが様子見て来いって」
 早口で言うと、“ゼロ”の今の様子を軽く見た。
 風邪といっていた。まだ、熱があるのか、その顔は少し赤い。いつもはうなじあたりで結っている濃紫の髪も開放して。意外とその髪は長く、肩甲骨を軽く超すほどだった。
「あ。こんなトコにいたら、風邪、悪化しちまう。中、入っていいか?」
 一瞬、周りを見回す。
 この階には他に住人がいないことを思い出した。
「あ、はい。どうぞ」
 ゼロはそう言うと、軽く身を引いた。
 じかにその声を聞くとやはりかなり掠れていた。
 お邪魔します、と涼は小さく言って、中に入った。



 外観からも予想はついていたが、やはり中は一人暮らしにしては広すぎるほどだった。
 部屋数が多いこともあるし、それに加えてキッチンが異様に大きい。
 涼は悪友とともにこういう類のモデル・ルームに冷やかしによく行っていた。さまざまなモデル・ルームを見てきて、ここまでも大きなキッチンを見たことはなかった。
 それに、男の一人暮らし。違和感がありすぎる。しかも、社会人ならまだしも、彼はまだ学生の身分で、だ。
 涼はその広いリビングに通された。
 どこか居づらいのか、ゆっくりとできないでいる。
 と。
 奥の部屋へと行っていたゼロが戻ってきた。
「汚い部屋ですみませんね」
 少し、苦笑して。
 向こうで着替えてきたのだろう。先ほど玄関で出迎えてくれた時とは違う服装になっていて、髪の毛をいつものように結っていた。
「いやいや。そんなことないよ」
 涼は横目で部屋を見回した。
 実際、綺麗に片付いている。
 涼が暮らしている――もちろん、一人暮らしだ――アパートの部屋はやばいことになっている。早く言えば、足の踏み場が無くなることもある。
「あ、そうそう。俺は……」
 名前、言ってなかったな、と思い出して。
 だがゼロは軽く微笑むと、
「藤城さん、ですよね。藤城、涼さん」
 涼のフル・ネームを口にした。
 少なからず、涼はそれに驚いたようだった。
 教えた記憶はない。ファースト・ネームならマスターたちが言っていたのを聞いて覚えたのかもしれないが、ファミリー・ネームはほとんど口にされない。
 そんな涼の様子を見て、ゼロは、
「俺は、如月零です。“ゼロ”は仮の名前、みたいなものかな」
 紅茶を入れたカップを涼の前に置いて。
「あぁ。零、ね。……で、なんで俺の名前、フルで知ってんだ?」
 あの店ではファミリー・ネームで呼び合うことはほとんどない。
「4月のはじめ、一度だけあなたたちのバンドに参加させていただきましたよね。そのときに、メンバーの名前だけマスターに聞いたんです」
 その台詞で、涼は納得したらしい。
 そして、一つの疑問が湧き出てきた。
「それってさ。今まで参加したバンドのメンバーの名前、全部聞いてるってことか?」
 Ocean Blueで零をはじめて見たのは、確か、3月の中ごろ。そのころから零がさまざまなバンドの助っ人として参加していた姿を見ていた。もちろん、最近もそれを続けているのを見る。
 Ocean Blueに出入りするバンドはFreedom>を入れて、10チームほど。その中でドラムスの助っ人を頼むのは、7チームと多い。さらに、1 チームのだいたいの人数は3〜6人。
「いえ。『Freedom』がはじめて、ですね。10チームの中で、一番好きですし」
 手元の紅茶が入ったカップを見つめて。
 と。
 涼が何かを思いついたかのように、口を開いた。
「お前さ、どっかのバンドに入るってことしないのか? あんな技術持ってるくせにさ、もったいねぇよ」
 少しうつむいたままの顔を覗き込むようにして。
 その視線に気づいたのか、零は顔を上げた。
「……俺なんかを受け入れてくれるトコなんて、ないと思いますし」
 その顔は、笑ってはいるものの、どこか悲しげで。
 何か疑問を持ったのか、
「なんで、そう思うんだ?」
 一口、紅茶を飲んで。
 その言葉に、零は少し詰まって、
「……人付き合い、苦手なんです。どうすればいいかわからなくて」
 少しだけ、間をあけて。
 掠れた、小さな声でつぶやいた。
「なぁ。俺たちのとこに、来ないか?」
 うつむいてしまっている零の顔を覗き込むようにして。
「……無理、ですよ」
 ゆっくりと顔を上げて、そう言った。
 その顔はどこか戸惑っているようで。
「なんで、そう決め付ける?」
 そう言ってから、涼は失敗した、と思った。
 一瞬だけ零の表情が歪んだのが見えたからだ。
「……わりぃ。俺、帰るわ」
 少しの沈黙の後、涼が小さく声を出した。
 零はうつむいたまま動くことをしなかった。
 ゆっくりと立ち上がると、玄関に向かって足を進めた。
 と。
 涼は振り返らずに一言だけ、
「一応、考えといてくれ。マジで困ってるからさ」
 少しだけ笑いを含んだ声音でそれだけを残した。
 その声にも反応を示すことなく、どこを見るわけでもなくただうつむいていた。


§     §     §


「オーダーです」
 そう言ったのは、1週間前よりも顔色がよくなった、零だった。
 涼が見舞いに行った4日後には零も回復したらしく、Ocean Blueに顔を出すようになった。
 もちろん、ドラムスの助っ人も続けたまま。
 と。
「なぁ、ゼロ」
 零に近づいてきたのは4人の男女。ここに出入りするバンドの一つだった。
「はい?」
 声をかけられて振り向くと、一瞬だけ零は顔をしかめた。だが、その四人は気づきもしなかった。
「今夜も頼む。急に入ってよ。いねぇんだよ、他のドラムスが」
 どこかやる気が感じられない声音で。
 それに対し、零は、
「すいません。今日は先約があるんで」
 とだけ断ると、また作業に戻った。
 しかしそれで彼らが引き下がるわけもなく、
「ならよぉ、そいつらの断れよ」
 肩を思い切り掴んで、身体は反転させた。
 零はその瞬間だけ表情を変えた。先ほどまでは愛想笑いを浮かべていたものの、一瞬にしてそれが消え去った。
 そして肩に置かれた手を掴むと、
「申し訳ないけど、それはできないですね。順番、ってモノがありますんで」
 また愛想笑いを浮かべて。だが、先ほどまでの笑みとは違う、冷え切った笑みだった。
 さすがにその変化には気づいたのか、4人はすぐに身を引いた。
 と。
 その4人の中の一番後ろに下がっていた者が、うわ、と声を上げた。
 声につられて全員が後ろを見ると、そこには涼が立っていた。
「り・涼じゃねぇか。どうした……?」
 リーダー格の男が反射的にそう聞いてしまうほど涼の顔には‘表情’と呼べるものが浮かんでいなかった。
「すまんなぁ。俺らが先にレンタルしちまったからさ」
 しかしすぐに笑みを浮かべた。ただ、いつもの涼が浮かべる笑みとはかけ離れた、冷たく作られたのもだが。
「いや、あんたらならいいさ。別のヤツをあたってみる」
 どこか怯えを含んだような、そんな声を出してそそくさとその場を離れた。
 涼はその様子を軽くため息をついて見た。そして、零と目が合うと2人同時に吹き出した。
「ふふ、……あいつらの顔……。くくく」
 本当に笑いが止まらないように、腹を抱えて笑っている。
「そ・そんなに笑ったら……。ぁははは」
 同じように、零がいまだ持っていたトレイをカウンター・テーブルに置きながらも笑い転げている。
 まだ客が多く残っているこの時間帯なのだが、カウンターの前はとある従業員2人の笑い声が数分間響いていた。
 と。
 やっと笑いが納まったのか、目元に浮かんだ涙を指でぬぐうと、
「藤城さん、あの話、受けます」
 いまだ笑い続ける涼をまっすぐに見て言った。
 一瞬、何のことかわからず考えたが、すぐに理解したのか、
「マジ、で?」
 だが、まだ信じられなくて。
「マジ、です」
 涼の口調を真似するように。
 その顔には1週間前には到底見れなかった人懐っこい笑みが浮かんでいた。
「了解。純に言っとく」
 そう言うと、2人とも同時に喫茶店の店員としての作業に戻った。



 日が暮れ始め、少しずつ喫茶店からライブハウスへと姿を変え始めるOcean Blue。
 しかも今夜の演奏者は、1番人気の『Freedom』ということもあって、早々と席が埋まりかけていた。
 と、その裏側。
 5人がすでにスタンバイしていた。
 アンプを調節していたり、歌詞の確認をしていたり。やることはそれぞれだ。
「ゼロが、正式に俺たちの仲間になることになった」
 始まりはこの涼の一言だった。
 まだ零の本名を知る者は涼だけで。
「1週間前、勧誘されまして。如月、零です。よろしくお願いします」
 零は曲順を確認していて。
 涼の台詞で顔を上げた。
 茶髪の青年は微笑んで。
 青髪の青年はヨロシク、と一言言って。
 赤髪の青年は軽く頭を下げて。
 今この時、『Freedom』が本当の意味で結成された。



 彼らが、本当の“翼”を手に入れるときは、近い。
 彼らが飛び立とうとするための、“自由の翼”を。



あとがきと思われる物

  まず最初に。一番好きな組み合わせです(ぉ
  だから時間の流れ無視して一番早く出来上がってしまったんですよ!
  いや自慢することではないですよね…_| ̄|○
  さまざまな矛盾点あると思いますけど、できればスルーの方向で…(ぁ
  では、最後に。
  こんな駄文読んでいただいて有難うございます。
  これからも精進していきたいと思います。